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麻原彰晃によって修学旅行先を変えさせられた思い出in1995


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地震、豪雨、猛暑と6月からこっち、生活にダイレクトに影響することが続いています。特に最近の猛暑、水でシャワー浴びてもぬるい温水みたいになっててヒンヤリ度がイマイチなんですよね。参った参った。少し気を逸してしまった気がしなくもないんですが、最近の大きなニュース、麻原彰晃の死刑に関して、事件当時のあの頃の話など書こうと思います。

あの頃のオウム真理教と中学生だった僕と

麻原彰晃の死刑執行によって、いわゆる「オウム真理教事件」は大きな区切りになったと思う(終わったとは言いませんよ)。「未解決事件」の特番でたびたび取り上げられていた「坂本弁護士一家行方不明事件」。現場にはオウム真理教のバッジが落ちていたという。僕が小学校の頃に、特番でたびたび取り上げられていたことを思い出す。うろ覚えだけど、行方不明になった1989年から92、93年頃の話。

時は流れて1994年。僕は京都に住んでいる中学生だった。当時、地元の進学塾に通っていたのだが、6月に松本サリン事件が起こった。塾の先生という人種は今よりちょっと変わった人が多かったように思う(当社比印象)のだけど、僕が親しくしていた社会の先生が雑談で、松本サリン事件の話から「新興宗教」の話になってオウム真理教、京都にもあったパソコンショップ「マハーポーシャ」や飲食店「うまかろう安かろう亭」の話をしていた。そのときあたりで「オウム真理教」という組織が強くインパクトがあり印象深かったことをよく覚えている。

あ、今思い出したけどその先生は「しょーこーしょーこー」の「あの曲」のテープも独自入手して持ってたな…後年になってわかったが、パソコン通信ニフティーサーブ)経由で音源を手に入れていたようだ。当時のWindowsのOSは3.1だったんじゃないかな。

しかしまあ、あの事件で日本中が「サリン」という化学物質をよく知ることになったものだ。ちょうど理科では化学式を習っていた頃だったが、塾の理科の先生はサリンの化学式を雑談で披露していた(だからなんだっていうネタなんだけど、ちょっとでも理科に興味を持たせるための工夫だったのだと思う)。C4H10FO2Pだ。あの頃の小さい塾はアナーキーだった…のか…?

激動の1995年、疑惑が深まるオウム真理教

そして95年。僕が通っていた中学校では、東京および東京ディズニーランドに修学旅行に行くことが前年から決まっており(少なく十その前数年間は同じだった)、楽しみにしていた。ディズニーランドは実は抽選で当たって家族で中学1年のときにも行ってたけど、学校の友達と行くっていうのは格別なものだ。

しかし、95年は激動の年だった。1月、山梨県上九一色村オウム真理教施設でサリンの残留物が発見され、怪しさが徐々に深まっていった。時をおかずして、オウム真理教被害者の会会長VX襲撃事件が発生。

さらに1月17日、阪神・淡路大震災が起こる。このあと1ヶ月程度は震災関連の報道がメインとなり、他の事件は薄まっていたような気がする。

再びオウム真理教の報道が増えたのは、2月末の公証人役場事務長逮捕監禁致死事件だ。殺害され死体遺棄されたのは後になってわかったことなので、当時は「仮谷さん拉致事件」「仮谷清志さん拉致事件」などという名称で報道されていた。これは複数の目撃証言があったなどで連日ワイドショーでも話題となり、人間関係の相関図なども紹介され、日に日にオウム真理教への疑惑が増していく。とはいえ、一般家庭へのインターネット普及はまだ黎明期であったところ、「速度感」は今よりもいくらかゆっくりだったように思う。

中学生だった僕がオウム真理教によって修学旅行先を変更された件

そして3月に地下鉄サリン事件が発生。日本中に激震を起こしたこの事件は、連日のオウム真理教報道に拍車をかけることになった。後に高校生になってからSPA!など立ち読みするようになり、小林よしのりが暗殺されかかっていたことなども知る。 漫画家が殺されかかるという異常事態であった。文庫版の8巻あたりですね。

さて、僕が通っていた中学校の修学旅行は確か5月~6月だったが、そんなこんなで3月のこの事件からほどなくして、東京への修学旅行の中止が発表された。

引率の先生や旅行会社としてはこの時期の東京への修学旅行は治安・安全面で責任が持てないだろうし、こともあろうに「あんなことがあったのに、わざわざ東京へ行くのか」という批判もあったのかもしれない。親としてもそういう心境は当然あると思う。

とはいえ、生徒からはブーイングもあった。まあそりゃそうだわな。夢と魔法のディズニーランドだし。もっとも、裏ではそもそも修学旅行自体の中止も検討されていたかもしれない。変更レベルで済んで良かったと言える。

そんなこんなで、行先を変更するということになり、結果的に長崎旅行、1992年にオープンしたばかりの佐世保ハウステンボスに行くことになった。今でこそ押しも押されもせぬ西のテーマパークの雄だけれど、前年には2周年でジャネット・ジャクソンがライブをやっていた、なんとも新しいテーマパークだ。

ディズニーランドに行ったことがあった僕としては「少し残念だが、まあ、悪くないんじゃない?」という心境だった。東へ行く予定だったところ、思いっきり逆サイドに振り切って西へ。長崎観光やハウステンボスはめっぽう楽しく印象深く、後年友達とも旅行に行ったり、長崎県佐世保出身の妻と結婚後に何度も行った。次回は、子どもも連れて一緒に行くことになるだろう。

以上のように、非常に間接的な話だけど、僕は麻原彰晃によって修学旅行先を変更させられるという影響を受けていたのであった。もし僕が当時、ディズニーランドに1回も行ったことがない人間だったならば、ものすごく凹んでいたかもしれない。「経験は精神に余裕を作る」ということだな…。

技術室のテレビで麻原彰晃の逮捕を知る

1995年5月16日は「Xデー」だった。オウム真理教の施設への強制捜査麻原彰晃の逮捕の日。隠し部屋で900万円以上の現金を持ちながら隠れていたところを逮捕された。技術家庭科の時間で、「これは歴史的な事件になるから」とのことで、先生が特別にテレビで報道を見せてくれていたので、逮捕されましたという第一報をリアルタイムで見ていた。推定無罪の原則とか、容疑者の人権とかまあ色々あるはずなのだけれど、教師の直感的なはからいだったのだろうか。テレビを見ていた生徒達は一同に妙なテンションだったのではないだろうか。

大事件を自分なりの視点で語り継ぐことの意味

人生で何度か、極めて大きな災害や歴史的大事件のニュースをリアルタイムで感じている。これらの経験について、これから生まれ、育っていく子どもに何をどういうふうに伝えるのが良いのだろうか、と考える。

今年で地下鉄サリン事件阪神・淡路大震災からは23年になる。例えば1945年に終戦となったが、23年後といえば1968年だ。1968年生まれの有名人はウィキペディアで調べたところ月亭方正三浦りさ子大沢たかお桑田真澄小沢健二あずまきよひこ赤松健森口博子野茂英雄つんくなど。彼らが終戦について学んだのは両親か祖父母か学校の教科書、どれが多いのだろうか?

僕としては、おそらく教科書でも学ぶことになるかもしれないけれど、親が体験したことをリアル感を持って話して伝えることができるというのは非常に貴重だと思うので、こうして全く別の側面から記憶をたどって書き残すことの他に、子どもには直接伝えてみたいなと思う次第。

メディアが発達してからの事件なので、当時の映像がまだ各所に残っている。伝えられる情報量が飛躍的に増やすことができそうだ。そして僕の視点が全てではないこと、これもふまえて伝えていきたい。なにせ地下鉄サリン事件の影響は上記のように、直接の被害者でもないし目撃者でもない。ただ、同時代の出来事で、当時の自分にすさまじくインパクトを残したことは間違いないのだ。そういう一つの視点としての自覚をもって伝えるということをしていこう。

今回は以上です。 

未解決事件 オウム真理教秘録

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